この本(注1)を作る時にこだわったことの一つに地域の名称を「東京の林業」とするか、「西多摩の林業」にするかということでした。いろいろと悩んだのですが、結果はどっちつかずであった部分が多かったように感じています。「西多摩林業地」としたほうがよいか、「青梅林業地」としたほうがよいかということも悩みの種でした。しかし今考えると、「西多摩林業地」や「青梅林業地」で悩んでいるのではまだ甘いということが分かってきました。(この名称の違いについては後述しますので、しばらくは気にしないでお付き合いください。)
ところで、現在では全国一律1ha3,000本植林(注2)をするというのが当たり前のようです。「東京の林業もそうである。」と教わって、実際にそのように植えてきました。『「正解」としての林業作業』という言葉をこの本の中で山本信次氏が書いていますが、まさに「正解」を正しいと教わってきたのでした。ところが、少し前までは京都の北山林業地や宮崎の飫肥林業地ではまったく正反対の密植(5,000~10,000本)と疎植(500~1,000本)が行われていました(注3)。現在でも北山林業地ではそのようなやり方の山が多く残っています。残念ながら飫肥は「正解」の3,000本植えが増えてきています。そのことを知り、「何故そのように植林本数が違うのか。」と疑問をもちました。その時は、答えを見つけられませんでした。別の機会に、天竜地方の林業家が「4,000本植えている。」という話をしてくれました。
「東京の林業では何本植えであったのか」という問題に話は進むのですが、どこを探しても答えはみつかりませんでした。「そうか、東京は3,000本林業だったのか」と思いかけた時でした。何気なく見ていた明治からの東京という写真集(題名は忘れてしまいました)の中に、東京の新宿界隈に木材市場があったというものでした。明治の中旬ごろから周辺部の都市化によって回りの山(人工林)が開発されてなくなったという説明でした。新宿に木材市場があったということはどういうこと?新たな疑問が湧いてきました。新宿は「炭の市場だけではないのか」と思い込んでいましたので、驚きました。知らないことを知ったかぶりをしていた頭に、金槌でガツーンと叩かれた感じでした。知らないならば知らないという認識でいなければいけないのに、勝手な思い込みで物事を考えていたのでした。そのことは江戸の町に杉などの木材を供給する山があったということを教えてくれました。そのことから、東京の林業の植栽本数が見えてきたのです。それはまだまだ先の話しですが。
注1 ここでは「山の親父のひとりごと」(日本林業調査会)。その後パートⅡ・Ⅲがでました。
注2 1間(1.8m)の縦横の間隔に植えると1坪1本の割合になります。1ha=1町歩=3,000坪ですので、3,000本植えという計算になります。
注3 飫肥林業の歴史をひもといてみると、必ずしも最初から疎植であった訳ではありませんでしたが、いろいろな変遷があったのでしょうが、大正時代辺りから疎植になったようです。それはどの地域であっても同じことで、どの時代をさすかによって変わってくることがあるようです。