東京の林業というと西多摩地域が有名ですが、江戸時代は「四谷林業」です。そこで採れたのが「四谷丸太」といいます。
新宿の四谷の大木戸を通ったからそのような名前がついたという説が有力です。四谷が発祥の地と言う説もあります。産地としては現在の地名で、杉並区になります。杉が並んでいるから「杉並」区です。洒落ではありません。
では四谷丸太とはどのようなものであったでしょう。いつごろから植林をしたものかは、はっきりと分かってはいません。江戸の中期ぐらいにはすでに名前は知られたようです。武蔵名所図会(1920年文政3年)には「高井戸丸太」として「椙(すぎ)の丸太なり。細く長きこと竹の如し。上品にて吉野丸太と同じ。」とあります。また天保年間の文書に「江戸四谷丸太とて四谷新宿より壱里ほど左右の在不毛乃平地によく生立、柱位なりたるを伐りて江戸へ出し、皮をはぎてみがけば吉野丸太の磨きて床の間の柱に用る位に紛ふ様なる木肌なり。」ともある(注1)。奈良の吉野林業地と並び称せられる立派な「床柱・桁丸太」が生産されていたのです。明治時代には「煙の立たないところでは出来ない」と言われていました。吉野丸太と並べられるほどの製品ができるような、丁寧な育林が行われていたのがその言葉から想像が出来ます。植林本数も、密植で6,000本から9,000本でした。枝打ちも梢から1間ほどしか枝はついていないという見事なものでした。ただし、専業林家というものではなく、1~2haという小規模に、農家の副産物としての造林をしていました(注2)。
東京府の農業(大正6年)に「府下林業の状態は山嶽林と平坦林の二様に区別され、各区域毎に特殊な発達をなす。青梅丸太林業は前者に属し、四谷丸太林業は後者に属す。」とあるように別々の林業作業体系をもっていたことが分かります。
しかし「青梅小角材は別名四谷丸太と呼ばれる」(注1)とあるように、青梅材を四谷丸太と称したことがありました。「(青梅林業は)特に明治時代において著しく発展、四谷丸太産地としての異名を奪った。」(注1)との事からのようです。そのにようになるのには、明治30年代に杉の赤枯れ病が蔓延して、大打撃を受けた結果衰退の一途になりました。その結果「異名を奪った」となったのでした。四谷丸太のブランド名は高かったのでしょうか、「スギの長丸太として四谷丸太と誤って称するものがある。」(注3)といつまでも詐称していたようです。
現在東京で山仕事にかかわっている人たち(素人を含めて)の中で、どれだけ多くの人が四谷丸太があったことを知っているでしょうか。「正解」の林業からは見えてこない世界がここにはありました。そしてここでの植林本数は6,000本から9,000本という「正解」ではない林業があったということです。そして、その丸太は吉野の床柱に引けを取らなかったものであったということでした。
注1 わが国経済的林業の担い手 太田研太郎 農業総合研究第7巻1号 昭和28年
注2 その後に書かれていますが、多くはそうであったという事です。
注3 青梅林業について 西多摩事務所農林課 昭和39年
この四谷林業の話は林業技術「四谷丸太林業 大野邦雄」(1994.11)が元になっています。
----------
その後……
「武蔵野の杉木立と『高井戸杉丸太』」 (平成5年 区制施行六十周年記念「すぎ百科展図録」) という本を読みました。江戸時代の四谷丸太林業のことが委しく書かれていました。文政期には材木渡世仲間が、練馬区杉並区新宿区豊島区などに存在し、山手線以西の地に屋敷林、一部は大規模な林があったそうです。
また、広益国産考(安政6年 1859年)には、
「江戸四谷丸太とて四谷新宿より壱里ほど左右の在不毛の平地によく生立柱位になりたるを伐て江戸へ出し皮をはぎてみがけば吉野丸太の磨きて床の間の柱に用る位に紛ふ様なる木肌なり此地は平面にして土は黒ぼこなどのかるき山土に似て田はまれに畑がちにて下土なり然れども右柱に取ばかりにて大材ハすくなし」
とあり、床柱としての四谷丸太の紹介がありました。先の「武蔵野名所図会」より早い時期からこのように評価されていたということがわかりました。
木馬を曳くところの写真です。実際は止まる寸前ですが。後からの写真は意外とないので、貴重かもしれません。
青い座布団や手斧のが無造作に取り付けられています。しかしこれらは木馬の小物としてはなくてはならないものです。座布団の使い方の1つには木馬を担ぐときにも使います。