四ツ谷林業や大久野の林業の話をしてきましたが、今まで東京の林業を見てきた人には どう映ったでしょうか。目にしてきたものと違う林業があったとと思われた人が多かったのではないでしょうか。そんなの知っているよという人は、多くはないと思います。今が当たり前だと思っていることが実はそうではなかった、他の面があると分かっていただければ、「正解」以外があるということを理解をしていただきたいと思います。
話を植林本数に戻しましょう。西多摩地域では実際には植林は1ha何本だったのでしょうか。古い資料では戸倉村政概要(大正7年)が有ります。戸倉村(現あきる野市 旧五日市町と合併)では村有林が多くあります。周辺の村の共有林を買い求め、村の財産としました。その村有林を管理するための「戸倉造林条例」が明治39年に作られました。そこには「1町歩5,000本」植えることとあります。四ツ谷林業のところで書いた6,000本には及びませんが、それに近い数字ではないでしょうか。それが、昭和43年の村誌戸倉では「植樹の間隔は……平均1坪1本位」と1ha3,000本植えの「正解」の本数になっていました。この5,000本から3,000本への減少はどのような意味を表しているのでしょうか。
さて昭和26年「わが国経済的林業の担い手」によると「ノビのよいスギ・ヒノキを密植し、集約的な手入れにより、きわめて短い循環期に立木を商品化するのであるから」とあります。密植するのは短い循環期のためとなります。短い期間とは「30年を1期として皆伐しつつ循環する小径木短期皆伐更新」と説明があります。ここでの小径木とは「青梅材は小角物と呼ばれる長さ2間、断面3寸3分角の柱材と、押角材及び足場丸太(別名ホッキ丸太)の総称であって、」のことです。細くてスラッとした木を育てるために、密植をしたと想像をすることが出来ます。
「青梅の林業について」(昭和39年西多摩事務所農林課)では「1町歩あたり3,500~4,000本が多いが、人により3,000本以下、又は5,000本植栽することもあり」「すぎは25年~30年。元口より10~13尺を小角に取り、その上部を足場丸太とし生産をすることが多い」と同じようなことが書かれています。
「山の親父のひとりごと」にも1町歩4,000本くらいというのを載せてありますが、削除した話の中に「早いところでは18年で足場丸太に全部伐ったのがあった」とがあります。とにかく早く、細い丸太を作ろうというのが当時の人の頭の中にあったようです。それはそのような木が西多摩の地では要求されていたことの裏づけになるかもしれません。それは裏を返せば、太い木があまりなかった、天然林は伐り尽くされていたということとも関係するのかもしれません。
小径木短期伐採林業は小径木が必要とされたということです。そのための造林の流れはどんなものであったのでしょうか。大雑把に言ってしまえば、枝打ち(エダウチ)と間伐(カンバツ)はなかったと言えます。
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その後……
山林の土地の面積が、実は実測とだいぶ違うのが普通だということを教わりました。公簿上の面積と実面積とは地域毎に、違うということでした。そのことを「縄伸び」といいます。この辺りは、1.2倍とか1.3倍とか、相続税の時に掛かるそうです。上記に書いた植林本数はどちらを指しているか、丁寧に調べないといけないことになります。植林木の株間の距離で書かれていないものを気をつけないといけないということです。私が聞いた範囲で言うと西多摩では3,000本よりは多く植えていたというのが多かったのは事実でした。
西多摩地域特有の木の乾燥方式。リンギリの写真です。
30年から40年程度の木を皆伐した時に、その伐採をしたところに棚積みをすることをいいます。
東京でも西多摩地域での技で、西川林業地(埼玉県)の一部でしかやられていません。全国的には珍しいものです。なぜ他地域で行われなかったのか不思議な技です。