話は横道にそれますが、許してください。言葉と言うものはどのような物と考えていますか。「始めにロゴスありき」でしょうか。日本人の思考にも関係をするのですが、表意文字の中国では、「始めにものありき」でした。ヨーロッパの形而上的思考と違い、形而下の物を見て認識をする世界がそこにはありました。(注1)日本はどちらだったのでしょうか。哲学よりも文献学的な日本ですから……。
前回に「枝打ちと間伐はなかったと言えます。」と書きました。枝打ち(注2)と言う言葉がなかったのか、枝打ちと言う行為がなかったのかどちらであるかは大きな問題です。樅にはそのような行為はなかった。杉ではどうだったのでしょうか。伐倒後の枝払いはここでは考えないで下さい。枝払いも「えだうち」という人もいます。
実は「えだぶち」はありましたが、「えだうち」はありませんでした。現在枝打ちと言えば「無節を作るための施業の一つ」と説明をされますが、無節を作ることを考えての作業はありませんでした。足場丸太や電信柱材を出す為の施業に、無節という考えは入ってきていませんでした。「33角(注3)でも節は結構出ていたな。」と聞きます。
「枝ぶち」はありました。「枝うち」はありませんでした。しかし現在では、「枝打ち」を「えだうち・えだぶち」と混同しているところもあります。西多摩地域では枝打ちを「えだぶち」というと私も過去にそう言っていました。その混同の原因は「えだぶち」があったからです。
「部分において記憶にとどめられた瞬間には明瞭でなかった対象の根本的な意味が「思い出す」作業において、その含蓄の総体を顕かにし得るのである。」(注4)とあるように、「えだぶち」と言う名前から思い出される、林業作業を記憶にとどめておきたいと思います。そこで行われていた「林業記憶」を忘れないためにも。
「えだぶち」という言葉のように、枝をきれいに払うというのではなく、叩き落す感じです。道具は初期は半もろや両刃の大き目の鉈を使っていたようです。現在の道具が鉈という点では同じようなものですが、考え方が違いました。そのために多少の残枝が切り取られなくても構わない感じでの作業でした。5mmぐらいを残している「えだぶち」を見たこともあります。確かに「えだうち」ではありませんでした。「杉は枯れ枝が出たころに、適当な棒で上から叩くのだよ。枝葉がそうすると落ちるだろう。下のほうは硬いから上手く落ちないので、それは鉈を使うのよ。」まさに、「えだぶち」の世界がそこにありました。「えだぶち」という言葉から思い出す作業を、今私たちはすることが必要なのではないでしょうか。そこに西多摩林業文化の総体の一部が顕かになるような気がします。その一部が総体を顕かにするきっかけをつかめるかもしれません。
注1 「儒教とは何か」加地伸行
注2 枝打ちとは一般的には35角の材では、節のないものを作るためには、ビール瓶の底までに枝をきれいに打つ作業を行う。四ツ谷林業のように、床柱を考えるともっと細いうちからの丁寧な枝打ちが行われることになる。
注3 1辺3寸の角材。元(根元側)から33角を取って、その上を足場丸太などにした。
注4 「名づけの精神史」市村弘正
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その後……
この頃は、木の枝でも何でも燃やし木として「エネルギー」として必要でした。いけない話ですが、他所の山には行って枯れ枝を叩いて落として持って帰るということも行われていました。
また、枝ぶち前に枯れ枝を棒でざっと下から振り上げて、枝を落としたということも聞きました。この作業を何というか聞き漏らしました。
伐出する丸太を縦に数本並べて滑り台を作ったものです。
その上を搬出する丸太を滑らせる構築物です。1枚20尺のものを10枚ぐらいつなげて1帳場として、数帳場続けるのが普通です。
現在ではそのような長いものはほとんど見ることがありませんが、1枚程度のものは搬出の便の悪いところで簡単に掛ける人もいます。
長いものは相当スピードが出るという話で、元締めはよい木を修羅に欠けられるとひやひやであったとも言います。
昔は伐採木の皮を剥いていたので、このような中途半端な皮むき状態ではありませんでした。再現作業を行った時の写真のため、皮が剥けていない材を組んでから剥いたので、こんな写真になっています。