エダウチ・間伐が無い林業が西多摩には存在した話しを、前回書きました。その当時の伐期や植栽本数が3,000本ではなかったということも書きました。つまり、「正解の林業」はこの地ではなかったということが出来るということです。
ではここで行なわれていたのは「林業」では無いのでしょうか。
そんなことはありません。充分に林業であったはずです。東京に限らず、各地域ごとに「林業」があったはずです。有名林業地の話しを聞くにつけても、そのことは分かると思います。
飫肥地方の500本から1,000本植えの林業などは特別なものではなかったのです。飫肥林業ではよく間違って解説をしていますが、本数が少ないからウラゴケになると、そんなことはありません。80年以上になると通直な綺麗な木になっています。当然生長はよく、直径は太く、年輪幅も太いのです。
有名林業地以外は、「正解の林業」という錯覚があるのではないでしょうか。そのようなことは東京の林業を見てきて分かると思います。その地域、その地域の林業があったはずです。地域循環型資源としての木材を考えてきた時にも、うちの地域はどうであったか考えることが必要ではないでしょうか。地域林業は地域の林業文化でもあるわけですから。
さて、一番最初に横に置いておいた問題に入りましょう。東京の林業の東京・西多摩・青梅などのどの地名を使うべきかということでした。ここまでお付合いしてきてくださった方は想像がつくと思いますが、地域なのです。地域ごとに林業がありました。
その地域を細かく見ていくと、またその細かい地域ごとの林業が見えてきます。青梅・西多摩林業地というのも、多摩川沿いと秋川沿いかによって微妙な違いがあります。それよりも、隣の家とのほうが大きな違いがあります。それは技術だけでなく、経済も含んだ問題にあるのでここでは立ち入らないようにします。ただどこかの広い枠でくくらないと煩雑なので、「ラッキョウの皮むきになるので」(注1)、地域ごとの枠がでてきたのではないかと思います。
「このレベルでさえ見出しうる多元性は、実は、全体の中の関係性の現れなのであると言えないだろうか」(注1)そう考えると青梅という一地域の名をあらわすよりは、西多摩のほうがよいように考えます。しかし歴史は青梅林業に分があるようです。
ついでにいいますと、私は西多摩地域を多摩川上部・多摩川下部・秋川上部・秋川下部とした分け方も必要ではないかと感じています。その根拠を筏のあるなしに分けられるのではないかと考えています。
注1 知の技法 東京大学出版会
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その後……
ソリ道のバンギの幅は人によって微妙に違ってきます。人の作った道は「歩幅が違うので」歩きづらい、とよく聞きました。時分の歩きやすい幅で作ってしまうからだそうです。ソリの形も作る人によって微妙に違うそうです。人の作ったソリは引きたくないという人もいたそうです。
最後は一人一人になってしまうので、どこでまとめるか意外と難しいと思います。とくに、広域合併などという行政の区割りが明治以降変化したところなどでは、尚更ではないでしょうか。
現在(以前の連載当時)制作中のリン切りの2段目です。途中ですので、見栄えはよくありません。本当は1段目をすべて埋めなければいけないのですが、本数を倒しきれないので省略をしています。